公益財団法人 数学オリンピック財団
『数学を武器に世界を廻る』
(「第13回日本数学オリンピック表彰式、第1回日本ジュニア数学オリンピック表彰式に於ける、
ピータ・フランクル氏の記念講演」約1時間の録音テープより抜粋)
ハンガリーは小さな国です。
ヨーロッパには40以上の国がありますが、殆どが日本より小さいです。
ハンガリーも広さは日本の1/4、人口は1/12の1,000万人です。
このハンガリーが世界に誇れるものがあります。
『数学』です。
世界で初めてこの様な数学の国際コンテストが行なわれたり、頻繁に開催される様になった国はハンガリーでした。
中高生向けの数学雑誌が100年近く前から発行され現在も続いています。
小中高生がこの雑誌に毎月掲載されている問題の解答を送り、年間を通して点数がもらえます。
学校もこの問題を解いて投稿する事を奨めています。
こうして首都ブタペストに限らず全国の数学好きの若い人達がより数学になじみ深くなっていき、
次に数学のコンテストに出たりして、結局数学の道に進む事が多いのです。
本日お話したいのはハンガリーが生んだ20世紀で一番偉い数学者の1人であるエルデス(1913-1997)の話です。
彼は小中高と学校に行ったことがなく、家で勉強していました。
それは彼の2人の姉さんが伝染病にかかって死んでしまった事から、両親が彼を伝染病から守ろうと外に出してもらえなかったからです。
彼もこの雑誌に解答を投稿していました。
そして18歳にならないうちに飛び級で数学で一番の名門大学に入学しました。
彼は同じく数学雑誌に投稿していた人達に会う事ができ、すぐに友達となりました。
彼にとっては『数学』こそが一番です。
他人と違うのは問題を解く事より、問題を出題し数学の為に一生懸命貢献しようと思った事です。
だから、大学に入ってからは彼は積極的に問題を出題し、懸賞をつけました。
懸賞といってもチョコレートやお菓子などとても安いものです。
一番高い懸賞は3,000ドルでした。彼の問題を解くためには1ケ月どころか1年、2年あるいは10年経っても解けない事があります。
彼の問題の一つにhappy end problemというのがあります。
平面状にない直線の問題です。(数学的部分の説明は中略)
この問題にクレインエステルが証明し、エルデスとセケレシュが解きました。
その後クレインエステルとセケレシュは結婚し正にhappy end problemでした。
エルデスの親友であるトゥーランは、ユダヤ人だったので強制収容所に入れられました。
数学は紙と鉛筆があれば出来ますが、収容所にはそれもありません。
そこで彼は、何も無くても出来る組み合わせ論を生み出しました。
(数学的部分の説明は中略)
戦争が終わりトゥーランはこの問題の一般化、ハイパーグラフの問題を考えました。
この問題は1963年の問題ですが未だに誰も解けていません。
(数学的部分の説明は中略)
エルデスは変わり者の中の変わり者でした。
彼は、数学をたった一つの武器に世界を廻り続け、いろんな大学へ講演に行ったりしていました。
彼は結婚もせず家もなく資産は何も持っていません。
『資産は面倒である、物を持っているから問題がおこる。
数学の研究の邪魔である』と言って、資産は持ちませんでした。
そのぶん数学者の友人をたくさんつくり、日本にも1985、1986、1990年の計3回来ました。
(ここからの1933年等差数列の問題と、懸賞3,000ドルの無限集合の問題説明は中略)
戦後のハンガリーのいい面は、もっと教育に力を入れた事です。
物理学オリンピック、化学オリンピック、国語、英語、生物、全ての学科に学校レベル、県レベル、全国レベルのコンテストがあります。
日本では数学オリンピックの選手を集めるのも一苦労ですが、ハンガリーでは文部科学省が応援して、各学科のコンテストは平日に行われます。
コンテストに参加すればその日は学校の授業に出なくていいのです。
ですからハンガリーの人口は日本の1/12ですが参加者は日本以上です。
そして特殊な学校も設けられました。
日本選手の表彰者は最近では開成、灘、筑駒などの名門校からの受賞者が殆どですが、これらの学校もハンガリーでいう英才教育とは違います。
ハンガリーのブタペストにホゼカシュと言う高等学校があります。
数学の専門高校ではなく色々なクラスがあり、数学のクラスが設けられたのは1962年です。
数学の授業が1週間に10コマあります。
全国から優秀な子を集めて英才教育をするにあたり、ハンガリー数学会や大学の先生も関わりました。
ある子は14歳の時に数学論文を書きました。
(以下、ラツコビッチの定理は中略)
現在でも数学オリンピックのハンガリー代表の2/3位はこの学校の生徒です。
バラナイと言う人は私に影響を与えた人です。
フランスに留学できたのも彼のおかげですし、彼はパリの地下鉄で大道芸をやってお金をもらって奨学金の足しにしていました。
私が大道芸をやる事になったきっかけはエルデスです。
彼が1973年に60歳になったお祝いにハンガリーで国際会議が開催されました。
その際にグラハムと言うアメリカ人の数学者がいました。
彼を初めて見た時は彼がビルの間の欄干で逆立ちをしているところで、落ちたらもちろん死にます。
彼は全米数学会の会長を4年間努めたほど数学の成績も優秀ですが、才能豊かな人でジャグリングも出来ますし、
私にお手玉を教えてくれました。
その時とても感銘を受けて『私もこんな面白い数学者になりたい』と思いこちらの道も進み始めました。
これにも数学が役に立ちました。
私が博士号を取ったのは1977年の24歳の時です。
その時3ヶ月間、ソ連に留学しました。
その時ボリショイサーカスのサーカス学校で授業を受けようとしましたが門前払いです。
しかし校長先生に自分が数学の博士号を持った大道芸人で、
ソ連科学アカデミーから招待されて留学していると話したら顔色が変わって大喜びで、いつでも来ていいですよとパスをもらいました。
サーカスも無料でしかも最前列で見る事が出来ました。
この3ヶ月間で色々な芸を学んでハンガリーに戻り、そしてもっと自由な生活がしたくてフランスに亡命しました。
大学に入った時は数学の道に進んでいいのか迷った事がありました。
数学をするきれいな女性がいなかったからです(笑)。
数学者になって良かったと思っています。
世界のあちこちで活躍できたのも数学だからこそです。
私の両親は医者でしたが、医者は国を移ればなかなか活躍が出来ません。
友人のハンガリー人はアメリカでトラックの運転手をしながら司法試験の勉強をしています。
その国々の免許や法律を知ってないと仕事が出来ないのです。
数学の素晴らしい才能を持っている皆さんは、是非自分の人生の為にも数学を極めて下さい。
そして数学者にならなかったとしてもせめて人生や他の学問の中に数学的な考えを活かして活躍して下さい。
どうもありがとうございました。
以上